日本語が亡びるとき
(オリジナル記事9月4日)
8月のある日、ふと義父が持ってきてくれる産経新聞の一面の左側あたりに「新潮9月号」の「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」のことを知った。
なんとなく胸騒ぎがし、居ても立っても居られなくなり、近くの本屋数件を探しに行ってみると「小説新潮」とか「新潮45」とかはあっても「新潮」がなく、困った。一度家に帰ったのだが、やはり気になってちょっと遠くまで(やはり自転車で)出かけてようやく見つけた。
帰ってきてから、何を思ったのか、数十ページをスキャナに掛けた。OCRで文字化した。
もちろん、そんなにデキの良い読み取りソフトではないので、「修正・更正」が大変だったのだが、不思議なことに新潮の縦書きの作品が横書きになってしまった。
(話はそれるが、最近は名作文庫がヨコガキで再出版されてそれなりに売れているらしい)
で、要するに今世紀は英語の世紀、で、掛かれたものは英語があっという間に世界を飛び交い記録としても残るが、それとは別に話し言葉が存在するようになる、ということらしい。
ブログなどは一般的には独白的な文体が多い。まぁ、現時点ではしゃべろうと思って頭に浮かんだものを無声話し言葉として文字化しているわけだ。
私なりに思い浮かぶのは、話し言葉というか、会話においては「相手をさえぎる」という行為が発生するが、書き言葉においては例えば「チャット」であっても、一応相手の書き込みが完結/完了してからこちらが書きはじめる。相手の言ったこと(書いたこと)の意味が不明瞭になったら読み返すこともできる。
でも(というよりは、だから)最近の人は会話が出来ない。相手の言うことを理解する能力が低下していると思う。
話をもどそう。 英語は出来て当たり前。
表現を変えるならば、日常語としての日本語、普遍語としての英語、さらにコミュニケーションとしての○○語(私の場合は中国語:会話はなんとかできるけど読み書きはほとんど出来ない)。 これが出来るか出来ないかであなたは勝ち組・満足組の仲間入りだが、出来ない人は負け組・不満組だ。
いくら巨大掲示板に情けない表現で書きなぐっても「品格の無さ」を露呈するだけだし、周囲からは無視される。
筆者(私ではないですよ)は日本語がなくなるのではなくて「亡びる」と言っている。今は存在していても将来は存在しなくなってしまうのである。そして、この電子世界においてはアルファベット26文字で表現できないものは「流通しなく」なってしまうのである。ロゼッタストーンでしか残らないのかもしれない。
11月9日追記
いよいよ単行本として出版されたようです。
本日は「四大学英語劇大会(埼玉県志木市市民会館)」を見に行ってきました。
英語劇を通して英語文化に触れるためです。奥深いですね。
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